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魔のオヘア空港。

本当は昨日クリーブランドからシカゴを経由してまたアイオワに戻ってくる予定だったのだけど…。
クリーブランド空港で飛行機の中に3時間以上閉じ込められ、オヘア空港の天候回復を待ったものの、結局その便はキャンセルとなり、キャンセルとなったもののもうその時間には他のルートでアイオワに入ることは無理な時間になっており。
よってクリーブランドでもう1泊となった。私はまたBと思いもよらず1日一緒に過ごせることになったので嬉しかったけれど、結局航空会社は代わりのホテルを取りますということもなかったし、私はクリーブランド空港で8時間も待たされたのでグッタリだった。おまけに今日アイオワで予定されていた大学での授業もキャンセルとせざるを得なかったし。
そして!今日の同じ便に変更となったのだけど、今日もまたしても飛行機の中で1時間以上待機させられた。今日は天候ではなく、シカゴ空港が混んでいるとかという理由で。そして今日は結局飛んだのはいいけれど2時間遅れでのクリーブランド出発となり、シカゴ空港での乗り継ぎ便に乗れなかった。よってシカゴ空港で次の便(があって良かった!)を4時間も待ち、最終的にお世話になるゲレオンの家に着いたのが夜中の1時半!クリーブランドを出たのがお昼の1時半だから、同じ中西部なのに半日かかった!直行便があればクリーブランドから1時間程度で着く場所なのに。。。
シカゴ・オヘア空港、便を飛ばしすぎでしょう。

# by smilingmoon | 2007-03-22 13:34  

明日から。

クリーブランドに昨日戻ってきた。
ここも暖かい日が数日続いたみたいだけど、今日から冬に逆戻り。雪が降ってる。寒い。

明日から東海岸に旅に行ってきます。
ワシントンDC、ニューヨーク、ナイアガラ・・・。それぞれ1日ずつもいないような強行スケジュールだけど、友達に会う旅なのでとても楽しみ。
楽しい旅の後に待っている現実はちょっと厳しいけれど・・・。

楽しみがあるからこそ人間辛い時も耐えられる。
この旅の後の楽しみななんだろう。

# by smilingmoon | 2007-03-17 04:44  

ヒロシマ・ナガサキをアメリカで伝える難しさ

論文みたいなタイトルになっているけれど…。
今夜もちょっと涙した。今回は仏教のことじゃなく…。

重々知ってはいるけれど…。
アメリカで原爆のことを話すのは難しい。いや、若い世代にであれば実はそんなに大変だとは思わない。彼らは“実相を知らない”という部分が大きいので。
でもこれが戦争を知っている世代となると。大きな石を押して動かすくらい難しい。いや、別に彼らの考えを変えようとかそんなことはさらさら思っていない。ただ“原爆”と口にすること自体が困難。本当に。

今夜はここデコラ町のメソジスト教会に招待されてプレゼンを行った。
用意していたプレゼンもあったのだけど、会場に集まってくれていた40人近いお年寄りを見た途端、内容変更決定。彼らは戦争や原爆については私が話す必要もないだろう。それにお年寄りにあまり生々しい映像を見せたくないという気持ちもあった。

私はアメリカ人のおじいさんに対してある種の恐怖心がある。この人は第二次世界大戦に参加してたのかな、日本人のことを嫌ってるかな、といつも最初に考えてしまうのだ。これはNACの活動をする前から持っていた感情なのだけど、NACの活動をするようになって益々持つようになった感情だ。いわゆるトラウマ?

今夜も集まってくれたお年寄りのおじいさんの中には私を見る視線が明らかに敵意を感じさせられるものもあり、それだけでくじけてしまいそうだった。
プレゼンの最後にあるおじいさんが私のところに歩み寄り、“自分もあの時沖縄に居た。”と言った。その2日後に何とか・・・と言っていたけれどよく聞き取れなかった。日本のアジアでの蛮行について触れていた時に“うんうん”と言わんばかりに首を縦に大きく振っていたので、退役軍人の人なんだろうとは分かっていたけれど。いやぁ、久しぶりだな。このリアクション。これまで学生に話すことがほとんどだったのであまりないリアクションだったけれど、70、80代のおじいさんからはありがちなリアクション。“原爆が自分の命を救った。”これはその人にとっては真実なのだから、私はそれに対して何か言うつもりは毛頭ない。この年代の人には、その当時の一般の日本人の生活を聞く耳すらやはりないのか。
その後すぐに別のおじいさんが来て、“あなたみたいな人を待っていた。来てくれて本当にありがとう。この勇気ある活動を続けてください。”と目をウルウルさせて言ってくれた。私も思わずウルウルした。それはそのおじいさんの言葉が嬉しかったのと、同時に安心したから。まるで敵に囲まれているような気分になっていたので、そうじゃなかったんだと感じることができたから。

世間にはいろんな考えがあって、色んな人がいる。ただアメリカの人口8,000人の町では人と違う発言をすることは難しいのだ。特に軍事関係者、というか家族がイラクや軍隊に入っている人がとても多い地域で米軍や戦争に反対するような発言をするのは勇気がいるのだ。近所の人の息子がイラクに行っている時に戦争反対と言いにくいのは普通の感覚だろうと思う。それはアメリカ人だけじゃなくて日本でも同じことだろう。

私は典型的な“アメリカ中西部”にいるんだな~としみじみ感じた。
私はこんな小さな町では住めないな。
やっぱりいろんな人がいて色んな意見が認められる大都会がいい。

最後に若い牧師さんが来て、色々意見を言ってくれた。実際の原爆の被害や映像を見ることの大切さ、退役軍人の人たちについてなど。やはりアメリカも私たちの世代では大きく原爆に対する受け止め方が違うようだ。これから原爆について話しやすくなるのは間違いないだろう。ただ、話す人がいればの話だが…。
私は今夜相当エネルギーを使った。そしてなんで自分はこんな思いをしてまで原爆のことを伝え続けているのだろうとも思った。62年も前のことを…。

でもやっぱりこういうハードな日を支えてくれるのは、来てくれてありがとう、これからも伝え続けて、と言ってくれる言葉なのだ。分かってくれる人たちなのだ。
私がアメリカにこだわり続けたい理由はこのアメリカの原爆に対する複雑さなのだ。私は平均寿命まで生きたらまだ50年近く生きることができる。その間、アメリカ人の原爆に対する見方はどう変わるのだろうか。
アメリカと原爆。
私のライフワークになるのだろうと思う。

# by smilingmoon | 2007-03-17 04:32  

仏教に涙する。

数日前までマイナス10度とかになっていたくせに、昨日からここアイオワにも春が来たっぽい!今日は10度近くまで気温上昇。に伴い大学生たちもいきなり夏仕様。みんな半そでTシャツ。サンダル。短パン!!この極端さが笑える。

昨夜はゲレオンに貸してもらった仏教についての本を読んでいた。瀬戸内寂しょう(ショウの漢字は何だっけ?)さんの本。
別に辛いことがあるわけではないけれど(今はアメリカなので幸せ☆)、ふっと涙してしまった。

まだあまり大切な人を失うという経験をそんなにしているわけではない。
おじいちゃんやおばあちゃんは96才のひなこばあちゃんを除き亡くなったけれど、両親も元気。姉も甥たちも。友達も。

でも、ある時から周りの大切な人たちが亡くなっていくことになる。年齢と共に。
その人たちとの思い出も、本当に”思い出”となる。
こうやってインドネシアでの仕事が合ってないだとか、明日のプレゼンの準備をしなくてはとガタガタ言っていることも遠い昔の思い出となり、深い記憶の戸棚にしまわれていく。

うまく言えないけれど、周りの大切な人たちが亡くなっていくことが”常”となるっていうのはどんな気分なんだろうか。そりゃみんな亡くなっていくわけだけれど、少なくとも今はみんな元気で暮らしている。
その大切な人たちと共有している思い出が本当に思い出となってしまうことを受け止められるのだろうか。いや、その場になればそりゃ受け止めなくてはいけないのだけれど。

なんだかそんなことを考えていると、いま周りにいてくれる家族や友達、Bの有難さをしみじみ感じ、ちょっと涙した。
そしてこんな仏教的な諸行無常・ワビサビの世界をガイコクの人であるBは分かってくれるのだろうか・・・と文化の違いに一抹の不安も感じつつ・・・。

# by smilingmoon | 2007-03-14 05:25  

穏やかな日曜日。

怒涛のようなプレゼンテーションの嵐を乗り切り、週末はサウスダコタ州のAugustana Collegeで行われたNobel Peace Prize Forumに参加し、今日はここアイオワに来て初めてホッとした気分で過ごしている1日。
まぁ明日は初めて地元の高校でヒロシマ・ナガサキについてプレゼンをするのでその準備もしないといけないのだけど、さすがに1週間も毎日プレゼンをしたら随分慣れてきた気がする。

今日の外の気温は7、8度。とっても暖かく感じる。
春ってやっぱりいいなぁ~。
長い冬を終えた後だからこそ特に喜びも二倍、三倍。
インドネシアは常夏だから冬の辛さはないけれど、季節の変化がないのはつまらないかな。

ここアイオワでプレゼンをしていると、大学生でも本当に日本についてあまり知らないことがよく分かる。
コイズミやアベという名前を知っている学生もいなかったし・・・。
日本はすっかりアメリカの友達の気分になっているけれど、両者の理解度には大きな開きがあるのが悲しい・・・。ま、世界でブッシュという名前を聞いたことのない人は少ないかもしれないけれど。。。
でも確かに日本人にインドネシアの首相の名前を聞いても知っている人は少ないだろうし、そんなものなのかもしれないね。

ここデコラという町はノルウェー人の移民によって建てられた町なので、ノルウェーの子孫がたくさん。加えて外国人も少ない場所なので、アジア人も本当に僅か。こういう場所に永住するのはちょっと辛いに違いない。
人種差別もやはりあるらしく、メキシコ系移民の人が町の靴屋で靴を売ってもらえなかったと聞いた。信じがたいけれど・・・。

人種差別。
人種って、差別って・・・。
色々こっちに来て考えさせられる。そしてそういうことを考える心のゆとりがある今の生活が愛しくて仕方がない。

# by smilingmoon | 2007-03-12 04:35